アサクサは、1920年代の東京東部を中心に活動した前衛作家の足跡をたどるアーカイブ展 『1923』 を開催します。アヴァンギャルドの発生とアクティビズムが関わった重要なこの一時期に、絵画・詩・ダンス・舞台・建築など分野を横断した活動を展開する数人の作家が現れました。フォトコラージュや立体構成物、ハプニングに先立つパフォーマンスなど、概念を前面に引きだすアプローチが手法化され、作品の神秘性を打ち砕く反芸術の源流を形作っていきます。本展は、現存する作品が少ない大正期新興美術運動の一幕を参照し、アーカイブの記録データから、活動の軌跡を再構成するドキュメンテーションの試みです。
1923年、関東大震災が起こり、東京の文化をかたどる街並みが一夜にして瓦解します。大正期の前衛芸術において主導的な存在となる村山知義がベルリンから帰国し、前衛作家集団 マヴォ(MAVO: 1923-25年) を結成するのもこの年です。『マヴォ第1回展覧会』(1923年、浅草・浅草寺伝法)ののち、ロシア構成主義やダダの影響を通じて総合芸術への考えを共有した村山、柳瀬正夢らは、震災後、路上へのより直截な介入を行います。仮設住宅や倒壊を免れた建築物のファサードを塗りかえるバラック装飾をはじめ、翌年の『帝都復興創案展』(1924年、上野・竹之台陳列館)では、巷で拾い集めた残骸を寄せ集めた構成物を都市モデルとして展示し、崩れ去った物質文化に対峙します。平面・空間から都市にまで広がる広汎な活動は、未来派の流れをくむ岡田龍夫のリノリウム版画、荻原恭次郎による詩構成、村山、柳瀬による舞台デザインのモデルなどとともに、機関紙『MAVO』に記録されています。
1924年になると、複数の前衛集団の合流への呼びかけによって三科造型美術協会(1924-25年) が成立。『三科第2回展覧会』(1925年、上野・東京自治会館) では、マヴォとNKKの共同制作による《門塔》(1925年)、木下秀一郎の巨大な立体構成物、パフォーマンスの要素を含む岡田の作品など、122点を会する最大規模の展覧会を開催します。当時、さまざまな思想が混在する中で、ダダやメルツとの関わりを示す広告やポスターデザイン、グロッス風の政治風刺をふくんだ
1923年、関東大震災が起こり、東京の文化をかたどる街並みが一夜にして瓦解します。大正期の前衛芸術において主導的な存在となる村山知義がベルリンから帰国し、前衛作家集団 マヴォ(MAVO: 1923-25年) を結成するのもこの年です。『マヴォ第1回展覧会』(1923年、浅草・浅草寺伝法)ののち、ロシア構成主義やダダの影響を通じて総合芸術への考えを共有した村山、柳瀬正夢らは、震災後、路上へのより直截な介入を行います。仮設住宅や倒壊を免れた建築物のファサードを塗りかえるバラック装飾をはじめ、翌年の『帝都復興創案展』(1924年、上野・竹之台陳列館)では、巷で拾い集めた残骸を寄せ集めた構成物を都市モデルとして展示し、崩れ去った物質文化に対峙します。平面・空間から都市にまで広がる広汎な活動は、未来派の流れをくむ岡田龍夫のリノリウム版画、荻原恭次郎による詩構成、村山、柳瀬による舞台デザインのモデルなどとともに、機関紙『MAVO』に記録されています。
1924年になると、複数の前衛集団の合流への呼びかけによって三科造型美術協会(1924-25年) が成立。『三科第2回展覧会』(1925年、上野・東京自治会館) では、マヴォとNKKの共同制作による《門塔》(1925年)、木下秀一郎の巨大な立体構成物、パフォーマンスの要素を含む岡田の作品など、122点を会する最大規模の展覧会を開催します。当時、さまざまな思想が混在する中で、ダダやメルツとの関わりを示す広告やポスターデザイン、グロッス風の政治風刺をふくんだ
漫画など、多様なジャンルで左傾化の動きが活発化していました。岡本唐貴は当時の思想背景を色濃く反映し、展示会場で拾ったファウンド・オブジェクトを組み合わせたインスタレーション《ルンペンプロレタリア》(1925年) を展示。権威のあるものを下降させ、また弱い立場にあるもを上昇させるヒエラルキーの転覆を示唆します。こうした美術運動の社会的旋回は、倫理的な側面をともない、プロレタリア美術へと結びついていきます。
築地小劇場で開催された《劇場の三科》(1925年) は、アクション、マヴォ、未来派美術協会、DVLなど当時の前衛集団の多様な性質が未整理のまま現れでた寸劇集であり、震災後の混沌のなかから自律的・即興的に立ち上がったこの構想には、「アングラから不条理劇、ハプニングにいたる全てが含まれて」(村山回想録) いました。村山が傾倒したノイエ・タンツ、絶叫調の恐ろしく早い台詞、構成主義的な舞台装置など、共時代的な連帯と新しい時代の予感を告げ、観客に強い衝撃を与えます。本展で上演するのは、1997年に筑波大学でパフォーマンス演習として行われた《劇場の三科》再演の記録ビデオです。五十殿利治氏、水沢勉氏、川口龍夫氏のもと、現存する資料がない部分は、参加者によるリサーチと想像とで補完されています。
過去と未来が遮断した1923年の震災を経て、左翼思想やアナーキズムへの共感が広がった時事的な背景のなかで三科は立ち上がり、またその思想の過激化により一年に満たずに解散しました。震災後の混沌のなかから自律的な美術運動を生み出し、反芸術の無形化を推し進めた大正期美術の集合地点で、かれらはいかなる変革のビジョンを共有しえたのでしょうか。多くがまだ20代前半だった若手前衛作家の歴史は、その後長い間忘却され、後続のアクティビズムによって塗り替えられていきます。この忘却をわたしたちの想像と記憶が補うとき、かれらの活動は3.11を振りかえる90年後の現在に、どのような視点を投げかるのでしょうか。
『1923』 展は、筑波大学 五十殿利治教授の協力のもとに実現しました。
築地小劇場で開催された《劇場の三科》(1925年) は、アクション、マヴォ、未来派美術協会、DVLなど当時の前衛集団の多様な性質が未整理のまま現れでた寸劇集であり、震災後の混沌のなかから自律的・即興的に立ち上がったこの構想には、「アングラから不条理劇、ハプニングにいたる全てが含まれて」(村山回想録) いました。村山が傾倒したノイエ・タンツ、絶叫調の恐ろしく早い台詞、構成主義的な舞台装置など、共時代的な連帯と新しい時代の予感を告げ、観客に強い衝撃を与えます。本展で上演するのは、1997年に筑波大学でパフォーマンス演習として行われた《劇場の三科》再演の記録ビデオです。五十殿利治氏、水沢勉氏、川口龍夫氏のもと、現存する資料がない部分は、参加者によるリサーチと想像とで補完されています。
過去と未来が遮断した1923年の震災を経て、左翼思想やアナーキズムへの共感が広がった時事的な背景のなかで三科は立ち上がり、またその思想の過激化により一年に満たずに解散しました。震災後の混沌のなかから自律的な美術運動を生み出し、反芸術の無形化を推し進めた大正期美術の集合地点で、かれらはいかなる変革のビジョンを共有しえたのでしょうか。多くがまだ20代前半だった若手前衛作家の歴史は、その後長い間忘却され、後続のアクティビズムによって塗り替えられていきます。この忘却をわたしたちの想像と記憶が補うとき、かれらの活動は3.11を振りかえる90年後の現在に、どのような視点を投げかるのでしょうか。
『1923』 展は、筑波大学 五十殿利治教授の協力のもとに実現しました。
PEOPLE
Mavo
Sanka Art Association
Toshiharu Omuka